私のバイク歴(詳細版)車も少しだけ含む
【子供時代】
 父親のバイクに乗せてもらうのが好きでよく乗っていた。何というバイクだったのか、父の生前に聞いたことがあったが、私の知らない名前のバイクだった。幼稚園や小学校に遅れそうになったとき、当時家で働いていた若い従業員にぶっ飛ばして送っていってもらった。幼児期の刷り込みで今もバイクが好きなのかもしれない。私の息子たち3人も小さい頃よく乗せてやったが、残念ながら現在誰もバイクには興味を持っていない。もう一人影響を受けたと思われる人がいて、それは小学校の5・6年の担任だったK先生である。先生はホンダのいわゆる神社仏閣型といわれる、250ccくらいのバイク(恐らくホンダドリームC70)に乗っており、今でも覚えている話が「時速100kmで飛ばしていると、ちっちゃな小石を踏んだだけでバイクが飛び上がる」というもので、子供心に「すごいなあ」と感心したのを覚えている。
 また、写生の時間に鉛筆で先生のバイクを丁寧に描いたところ、その作品がコンクールで特選になったことがあった。

【高校時代 】 (16〜18 歳頃)Honda Super Cub C105 (55cc)
                                                     

 高校生になると、級友達はバイクの免許を取って、バイク通学は禁止だったが、バイクを学校の近くに乗ってきて、見せびらかしたりお互いに乗りあったりしていた。その頃は皆ノーヘルだった。私も原付の免許を取っていたがなぜかそれ以上の免許を取ろうとはしなかった。(後になってそれが悔やまれるのだが・・・。) 当時欲しかったのはCL72という、ホンダのストリートスクランブラータイプのバイクだったが、父の商売がうまくいっていなくて言い出せなかった。バイクに乗りたがっているのを知っていた父は、ある日、「バイクを買ってきてやったぞ!」と言った。喜び勇んで家の外へ見に行った私の目の前にあったのは、かなりくたびれたホンダの「カブ」だった。しかも後へ回ってナンバープレートを見ると黄色!。それは私の持っている原付免許では乗ることのできない55ccのバイクだった。聞くところによると、銀行がバイク屋に下取りに出したものを2千円で買ったとのこと。
 私はこのバイクにどうしたら乗ることかできるかと知恵を絞った。原付(50cc)のバイクのナンバーは白である。「そうか。ナンバーを白くすればいいんだ。」簡単なことである。ペンキで変造したナンバーのそのバイクは高校3年間私の足として、よく働いてくれた。しかもたった5t違うだけで原付バイクに比べ馬力が強く、スピードもかなり出たように思う。一度、夜走っていて警官に止められ、不審そうにナンバーを見られたこともあったがバレなかった。(警察関係者の方、時効ということで許してね。)

【大学時代 〜就職した頃】(20〜 23歳頃) Honda Super Cub(50cc)
 高校卒業と同時に車の免許を取ろうと、自動車教習所で練習し、試験場で5回目で合格。その頃、母方の祖父が亡くなり、コニーという軽のライトバンを譲り受けた。このコニーという車、当時はほとんど走っていないレアな車で、愛知機械自動車工業という会社が作っていた車。ガソリンスタンドなどで年配の人から「これは往年の名車なんだよ」と懐かしそうに言われたこともあった。また、当時の大学生で車を持っている者は少なく、同級生を乗せたりしたが、もともと古い車なので、そのうちドアの内側のノブが壊れて取れ、開けるには窓を開けて外から開けたり、マフラーに穴が開きバタバタとすごい音がするので、皆から「ヘリコプターが来た」と言われたりしたのもいい思い出である。そういえば大学構内にいる野良犬の群れがこの車を見ると、いつも吠えまくって追っかけてきたものだった。
 大学4年の時、完全に壊れたので父が買ってくれた中古ホンダのN360に乗り換えた。この車はボディの一部にプラスチックが使われており、車重が恐ろしく軽いので、360ccながら結構スピードが出た。どのくらい出るかと限界に挑戦したら、時速130kmくらいで足下からなにやら焦げるにおいがしてきたので、怖くなって止めた。
 バイクに関しては大学1年か2年のときピアノの先生の同僚からカブを格安(5千円?)でゆずってもらった。これは就職してからもしばらく乗っていたが、自動遠心クラッチがいかれてしまったため廃棄した。そういえば、こんなことを思い出した。ある夜、若い警官に止められ職務質問をされたとき、「君は大学生か?僕は大学に行きたかったけれど、行けなかった。君がうらやましい。しっかり勉強してくれ。」というようなことを言われたのが印象に残っている。

【25,6歳頃】Suzuki GSX250 Traditional
                            

 この後少し、バイクのブランクが続く。車はN360から就職(広島県立加計高等学校)を機に日産サニークーペの初期型、いわゆるKB10というこれも車重が軽くて飛ばせる緑色の中古車を10万円で買った。なぜこの車にしたかというと、高校の吹奏楽部の先輩がこれに乗っていて、一度乗せてもらったときに「カッコいい!」と思ったからだ。同僚の先生が「この車に乗るやつは大抵暴走族じゃ。しかも緑が。」と言ったの覚えている。内装のパネルがアルミでできてたり、木製のハンドルやシフトノブなど結構洒落た車だったが、ある日走っていると突然止まって全く動かなくなった。ディファレンシャルギヤ(日本語でいうと「差動機」というそうだ。)が割れたのだ。その後、3代目のサニークーペGXというハッチバックの車に当分乗っていた。これはツイン・キャブというのが売りで結構速い車だった。 加計高校に3年勤務した後、広島市西区に新設された県広島井口高校に転勤になった。新設校なので何もかも一から始まり、校歌の作曲を任されるという貴重な体験もさせてもらった。
 ある日弟が250ccのバイクに乗って遊びに来たので、「ちょっと乗らせてくれ」と無免許で家の周りを走った。その途端、かつてバイクに乗っていた時の爽快感が蘇り、すぐさま中型免許を取りに広島市西区にある観音の自動車学校へ通った。実技試験免除ですぐ取れ、弟と同じ新車のスズキGSX250Tを買った。(弟は黒、私は赤。Tとはトラディショナルの略)このオーソドックスなバイクはとても乗りやすく、そこそこに速かった。また、当時入っていた合唱団のメンバーでOという同い年のバイク好きが、私が乗っているのに刺激され、長い間故障して放っておいたスパルタンなバイクSuzukiGT380(いわゆるGTサンパチ)を復活させ、一緒にツーリングに行くようになった。飛ばし屋の彼は、とにかく前にいるものは抜かないと気がすまないらしく、追い越し禁止だろうが、どんどん追い越してゆくので必死でついて行った。彼は大学を8年かかって卒業し、その間日本一周を何度もしたというツワモノである。彼からはバイクやツーリングに関することをいろいろと教わったが、結婚すると同時に、パッタリと乗るのを止めてしまった。私はその前に結婚していたが、バイクは止めることなく、学校の試験期間中に休暇をとって、一人で中・四国を中心に気ままな泊まりがけのソロツーリングを楽しんでいた。

【限定解除に挑戦】(その1)【34,5歳頃】
 Oと一緒に走っているとき、彼が私を小馬鹿にして「中免(中型免許)しかないくせに」とよく言っていた。彼は高校生のとき免許を取ったので125ccくらいの試験車で合格すると、当時はどんなバイクでも乗れるという免許だった。悔しかったが、私は250ccで充分満足していたので、中免でも構わないと思っていた。
ところがある日、バイクの本か何かを読んでいて、素晴らしく格好いいバイクを見つけた。そのバイクの名前は長ったらしくて、Honda CB750カスタム・エクスクルーシブというナナハンだった。一旦惚れてしまうと、夢にまで見るくらい欲しくなってしまった。
 本を買って調べたりバイク屋を回って、中古車がないか聞いたりしたが、発売されてだいぶ経っており、また数もそんなに生産されてなく、広島県では40台しか販売されなかったというバイク屋の情報もあった。いわゆる特別仕様の限定販売というやつで、リヤとサイドの純正のボックスがセットになっていてクロームメッキが多用され、シートもキングスシートと言って高級感漂うものだった。
 このバイクに乗るためには大型二輪の免許を取得する必要があった。現在では中型免許と同じく自動車学校に入れば、技能試験免除で簡単に取ることができるが、当時は暴走族が流行っていて社会問題となっているときだったので、非常に取るのが厳しく、試験場に行って「限定解除」という試験を受けて合格しか方法はなかった。

【限定解除に挑戦】 (その2)
 この試験は東大に入るより難しいと言われ、私が通った広島観音試験場では1日40人くらい受けて合格するのはたったの1〜2名という厳しさだった。当然受かるためには何回も通うことになり、受験者たちはだんだんと顔なじみになり、いろんな情報を交換しあったりした。
 さて、どうやって練習するかだが、タイミングよく安芸郡海田町に「ロイヤルドライビングスクール」という教習所が大型二輪の教習を始めるという情報を得て、早速習いに行った。今でも覚えているが、まず取り回しから始め、スタンド掛けを何度もやらされた。カワサキのZ2の廃車だったが、あまりに重かったのはタンクの中に砂を詰めていたせいらしい。革手袋をしていたが、後から見ると血豆ができていた。ここの教習方法は極めて独特で、普通の教習に加え、少し乗れるようになると、大型二輪を体で慣れさせるために、狭いコースを教官の後について5,6人が全速力で走り回るという、かなり怖い練習があった。(ジムカーナと言うらしい。)カーブで転倒したりすると教官の罵声が飛び、「早くバイクを起こせ。ガソリンが漏れて道路のアスファルトが痛む」と、人よりバイクより道路を優先するのが良く分からなかった。
 だいぶ慣れたころ、まだ自信はなかったが、とりあえず限定解除がどんなものか知るために試験を受けに行った。試験場は当時勤務していた県立広島井口高校から10分くらいのところにあり、午後の授業がないときに休みをとって行くことができた。今では考えられないが、当時は半日研修といって、年次休暇ではなく自由に休みを取ることができた。何度か教習所で練習し、そろそろ慣れたので腕試しに受けてみるかと行ってみたが、全部コースを走らないうちに「はい、そこまで。帰りなさい。」自分では結構うまく走れているのにと思うのに10回、15回と落ち続け、これでは永久に受からないのではないかと落ち込む毎日・・・。20回目は少し雪が降った日だったので、中止になるかもしれないが一応試験場に行くと小人数だが試験は行われた。これまでで一番うまく乗れたと思ったが、不合格。それより頭にきたのが試験官に「何でこんな日に受けに来たのか?」と言われたことだった。
 学校では試験を受けに行っていることは秘密にしていたが、ある日同僚の書道の先生と雑談をしていると、「私は教員になる前に自宅の敷地で自動車教習所をしてたんですよ。」と言われるではないか。そこで実はこうこうで苦労していることを言うと、「試験官は大勢の受験者を見ているから、人と同じことをしていたらダメです。アドバイスができることがあればしましょう。試験場のコースでどういう風に安全確認やスピードを出しているか、言ってください。」と言われるので、コースの見取り図を出して「いつもはこの辺で減速し、安全確認をして、ここから加速しています。」と言うと、「大事なのはメリハリのある運転です。加速するときはしっかり加速し、安全確認はもっと早めにはっきりわかるようにするといい。」とのアドバイスを受け、21回目の試験では交差点の手前では早すぎるくらいに安全確認をし、加速減速をいつもよりオーバーにしたら、なんとあっさり合格したではないか。合格の発表を聞いたときはこれまでの人生、数々の試験を受けてきたが、その中で一番嬉しかった。書道の先生にただただ感謝である。 

【35,6,歳頃】 HondaCB750Custom Excrussive        
                              

 さて問題の欲しいバイクであるが、限定解除の試験と並行してずっといろんなバイク屋を捜し歩いていた。今のようにネットで探すこともない時代だったので口コミだけが頼りだった。合格してしばらくした頃、同僚のバイク好きの体育の先生から「広島駅の近くの小さなバイク屋にあった」ということを聞きつけ、早速行ってみた。とても状態のよいきれいなバイクで、前のオーナーはバスの運転手で丁寧に乗っていたという。純正の3点式のリヤとサイドのボックスがついていて、かなりの迫力。風防が着いていたが好みでないので外して貰った。
 形としてはアメリカンなのだが、ふんぞり返るようなベタのアメリカンではなく、堂々とした乗車姿勢が好きだった。特にCB特有の4本マフラーは格好よく、後ろから見ても惚れ惚れした。車重が260kgあり取り回しには苦労したが、やはり若かったので休みが取れると中・四国・九州を中心にツーリングによく出かけた。荷物が沢山積めるのでキャンプ道具を積んでキャンプをすることもあった。また、高校のマラソン大会では体育の先生に頼まれて、白バイのように先導車を勤めたのもいい思い出である。

【37〜46歳頃】 Honda SilkRoad           Honda  XL125
                     

 CBを買ってしばらくしてもう1台気軽に乗れるバイクが欲しくなり、250cc単気筒のSilkRoadという少しマイナーなバイクを買った。O氏はもうGT380を手放していたので、彼がSilkRoad、私がCBに乗ってツーリングしたこともあった。さらにオフロードが欲しくなり、学校の近くにあったバイク屋で安い中古のXL125を買った。さすがに3台は無理なのでSilkRoadは売ったような気がする。
1990年、38歳のとき内地留学という形で広島大学の音楽科で3か月間研修をすることになった。大学生と同じように好きな科目を受けられるという夢のような研修だった。また、高校の授業でギターを教えていたが、スキルを磨くため、福山市内の楽器店でギターの先生について習ったりした。この先生には福山に転勤になってから再びレッスンを受けることになった。
 大学の先生方は学生の頃の先輩もいて、卒業生と言うことでとても気を使ってくださり、夜はよく飲みに連れて行ってもらった。この時XL125を福山に持って行き、休みの日には海や山へ走りに出かけていった。そしてその研修が縁となり、翌年広島大学附属福山中・高等学校へ転勤となった。

【46歳頃】 Suzuki  DJEBEL(ジェベル)200  
                                   

 福山に行った後もCBはずっと所有していたが、借家の駐車場が細長い作りで、一番奥にバイク、次に家内の軽、手前が私の乗用車という配置。バイクを出すためには2台の車を出し入れしなくてはならず、とても面倒だった。維持費がかかるし車重もあり、だんだん乗るのが億劫になった頃、手軽に乗れるオフロードが欲しくなり、レッドバロンで程度の良いSuzuki DJEBEL(ジェベル)200を26万で買った。CBは5万で下取りしてくれたが、しばらくしてこのCBがレッドバロンの店頭に置いてあり19万の値札が付いていた。
 このDJEBELはとても軽快で馬力もそこそこあり、街中を走るのも良し、山を走っても楽しい、いいバイクだった。愛媛で音楽研究会の中・四国大会があったときにはバイクで出張し、大会が終わった後一泊して、坪が森林道などを走った覚えがある。
 また高知にツーリングしたとき、帰りに四国山地を越えて松山に向かっていると、工事中で全面通行止めの看板があった。迂回して遠回りをすると帰りのフェリーの時間に合わなくなる恐れがあったため、バイクなら通れるかもしれないと強引に進んだ。すると山の斜面の工事中の現場で、道がほとんど削れていて通れそうにない。仕方なく引き返そうとすると、ショベルカーで作業をしていた若い人が、「道を作ってあげるから通りなさい」と言い、10分ほどで簡単な道を作ってくれたのには驚いた。礼を言い、「タバコでも買ってください」とお金を渡そうとしたが、受け取ってはくれなかった。心温まる旅の思い出である。

【54歳頃】 Kawasaki W650
      

 別にこのバイクに不満があったわけではないが、その頃素敵なバイクに出会う。それはKawasakiのW650である。往年のメグロやW1などを彷彿とさせるレトロなデザイン。トライアンフにも似たバーチカルツインの美しいエンジン形状、今までにない独特のスタイルに一目惚れした。CBの時と同じく、欲しいと思ったら寝ても覚めてもW650 の事ばかり考えるようになった。そしてレッドバロンに行き、中古を探してもらうことにした。その場でレッドバロン系列の店の在庫を調べてもらうと、1年落ちの2005年式で走行距離は2000km、色はブルーでほぼ新車の状態の出物があると言う。DJEBELを下取りにして67万くらいだったと思う。KawasakiのWシリーズは今は人気だが、当時はそうでもなく割と安かった。東京からの陸送代や、リアキャリアやボックス、ETCなどを付けてあと10万くらいかかったが、届いてみると期待した通りの風格があり美しいバイクだった。久々の大型バイクなので、最初は重くて取り回しに苦労したが、そのうち慣れて、長距離のツーリングによく出かけた。とは言え、教務や総務など授業以外の仕事が増えて学校が忙しく、その上夏休みは吹奏楽の定期演奏会のため、まとまった休みは取れず、せいぜい2泊3日のツーリングが主体だった。W650はそんなにスピードは出ないが高速を走るには十分な馬力があり、ゆったりと余裕を持った走りは大人のバイクといった感じで、ドコドコといった独特のサウンドも心地よく、大切に長く乗ろうと思った。このころのツーリングスタイルは、ビジネスホテルを利用することが多く、CBの時のようにキャンプをすることはなかった。中国・四国・九州はほぼ全域走破した。定年退職したら、夏の北海道に行くのが夢だった。

【63歳頃】 Honda PCX125
                

 61歳で定年退職した後、再雇用でそのまま勤めていた。給料はほぼ半額になったが勤務内容は同じ。W650 は通勤で乗っていたが、ツーリングに行くことは少なくなってきた。その理由の一つが体力が落ちてきて、取り回しがきつくなってきたことである。立ちごけすることも何度かあった。そしてある日レッドバロンにオイル交換をしに行ったら、チェーンとスプロケットが摩耗しているので替えなくてはならないと言われた。車検は半年後で、経済的な理由もあり、手放して小さいバイクに乗り換えることを考え始めた。
 前回の車検の時の代車でSuzukiの125ccのスクーターに初めて乗ったのだが、その走行性能にびっくりした。結構スピードも出るし、街中を走るにはこれで十分ではないか。ただし125では高速や自動車専用道は走れない。250も視野に入れ、いろいろ検討した末に出した結論がHondaPCX125だった。他のスクーターと比較して若干価格は高かったが、性能、スタイルが群を抜いていた。
 実は私は昔から心に決めていることがあった。それは「スクーターは例えタダでやると言われても絶対に乗らない」というもの。スクーターはバイクとは別物。大の大人が乗るものではないと固く信じていたのだ。それなのに何を血迷ったかPCXに惚れ込み、あとで後悔することをつゆ知らず、Wをあっさりと手放してしまった。
 まず、レッドバロンに行くとPCXは人気で半年後でないと入荷しないという。次に神辺町にあるホンダのディーラーに行くと在庫はあったので、下取りはレッドバロンより安かったが、早く欲しかったのでそこで買った。下取りは23万だったと思う。PCXは最新のテクノロジーが詰まっていて、メーターがデジタルで時計はあるし、Wにはなかった燃料計もあり、平均燃費もでるという至れり尽くせりのスクーター。燃費はなんとリッター当たり50〜55kmという驚異的なもので、楽しくて毎日近場を走り回っていた。
 スクーターに慣れるとだんだん横着になり、時には短パン、サンダル姿で乗ったり、冬は手が寒いのでコミネというメーカーのハンドルカバーを付けたりして、知らず知らずのうちに私は軟弱なライダーへと変貌していった。広島市内にも一度だけ下道(したみち)を使って行ったことがあったが、さすがに疲れ、やはり長距離を走るには、高速を使う必要性を感じた。私生活では再雇用を64歳まで勤め、1年間非常勤講師をした後、65歳で完全にリタイアして、毎日が日曜日の年金生活に入った。

【66歳頃〜70歳】 SuzukiST250e-type
                                      

 リタイアすると時間ができるため、それまで行けなかったツーリングを始めようと思うようになった。特に若いときからの夢である北海道にはどうしても行きたかった。そのためにはPCXを手放し、中型以上のバイクの購入する必要があった。その時にW650を手放さなければよかったと、どんなに後悔したことか!
 本当は大型を買いたかったが、今は年金生活者。維持費等を考えるとやはり、250ccが無難だと思い、候補をクラシカルな雰囲気でWにも少し似ているKawasakiのエストレヤと、シンプルでメーターも1つしかないSuzukiのST250e-typeの2つに絞った。ネットで調べると値段はエストレヤの方がかなり高く55万くらいで、STはあまり人気がないのか新車でも40万前後だった。レッドバロンには双方とも新車の展示車があり、比べて検討することができたが、STの方がバイクの原点のような無骨さがあり、いろいろといじり甲斐があるような気がしてそちらに決めた。ただし、レッドバロンは下取りも安く、そもそも販売価格が高かったので、他を当たることにした。近くの2号線沿いにスズキの店があり、STを探しているというと、「もう販売が終了しているので、どこにもない」と無下もない。ネットで探すと広島の店で格安の新車があったが、色が白だったので諦め、結局遠いが大阪の業者から走行距離430kmのほぼ新車を37万で買い、PCXはバイク王に11万で売った。
 STが来て早速乗った印象は、250にしては小さく、取り回しが楽なことだった。馬力もそこそこで単気筒らしい粘りもあった。しかし、そこまでシンプルに徹するかというくらい、ないない尽くしで、タコメーターはなし、センタースタンドはなし、配線はむき出し、もちろんメーターには時計・燃料計もない。
 まずはキャリアを買って、PCXに付けていたリアボックスを乗せた。次にGBクラブマン用のニーグリップパッドを着け、メーターバイザーを着けると少しクラシカルな雰囲気になった。シートは2分割式でリアシートを外すとさらに旧車っぽくなったが、荷物が乗せられないので普段は付けている。
 ツーリング用の道具も買い揃え、2019年の夏、久しぶりに兵庫県の香住地方と鳥取県の蒜山地方に2泊3日のキャンプツーリングに出かけた。昔の勘を取り戻して、よし、来年はついに北海道に行くぞと意気込んでいたら、何と新型コロナウイルスの流行で行けなくなり、2022年の夏、やっと15日間の北海道ツーリングが実現した。北海道の広い大地を駆けるには少し非力ではあったが、必要最小限の荷物を積み込み、約3000kmを道のりをSTはよく走ってくれた。帰ってからオイル交換をし、溜まった汚れをきれいに洗い落とした。

【71歳〜】 Kawasaki W800 

 北海道ツーリングで感じたのは、やはり大型バイクで余裕をもって走りたいと思ったことである。キャンプをするには、沢山の荷物を積む必要があるし、風が強いときは軽いSTでは結構フラついた。 そこで前々から「次に大型に乗るにはこれだ」と決めていた、カワサキのW800を購入することにした。詳しいいきさつは「バイク日記F」に記しているが、好みの色や仕様のバイクを半年くらいかけて、バイク店を回ったりネットで調べたりしたが、なかなか見つからなかった。ネットでバイク王の埼玉・上尾店にあるのを見つけたのが2023年の3月初め。それから車検を取ったり、ETCを付けたり、配送業者の日程などで、1ヵ月後の4月5日にやっと手元に来た。そしてその年の9月、昨年に続き、北海道ツーリングに愛車W800で出かけたのである。


【72歳〜】 Honda HunterCub CT125

  

 W800を手に入れてから2年近くがたち、走行距離も4万3千kmを越えた。2年間で約1万7千km走ったことになる。タイヤも溝が無くなってきたので今年の1月に前後を交換し、ディスクパッドも摩耗していたので一緒に交換した。全部で6万5千円かかり、しかも3月には車検が控えている。

 なぜこんなに距離が伸びたかというと、北海道や九州へのツーリングをはじめ、雨の日以外は日常の足としてほぼ毎日乗っていたからだ。そこでW800はなるべく長距離を走るときに使い、普段ジムに行ったり、買い物をしたりするために気軽に乗れるバイクが欲しくなった。狙いは車検のない125ccで、任意保険も車の「ファミリーバイク特約」が使える。

 実は最近気になるバイクがあって、それはホンダのクロスカブとハンターカブである。どちらも若者に人気があり、スタイルもスーパーカブと違ってカッコいい。クロスは110cc、ハンターは125ccで自分の好みはハンターである。しかしクロスよりハンターの方が10万近く高い。

 購入を決定づけたのは、毎週吹矢に通っている体育館の職員(CB400を所有)が黄色のハンターカブを買ってきて見せてくれたり、バイクに関する話をいろいろ聞いたことだ。今年(2025年)モデルのマイナーチェンジがあり、本体価格が44万から47万に値上げしたことと、黄色が無くなったため2024年式の新車の人気が高まり、品薄の状況であるとのこと。職員も福山では見つからず、結局倉敷の店で買ったそうだ。

 STやWのようにネットで探して買うと便利だが、修理や点検などのことを考えると、やはり店で買った方がいいので、レッドバロンやホンダの系列のバイク屋など数軒探した。「残念!先日売れちゃいました」という店が2軒あり、探すのは難航しそうだった。。

 結局、ダメもとで入ったスズキのバイク屋(以前STを探していた時に行った店で、対応が悪かった)が親切にも探してくれ、系列のバイク屋に1台あったのを見つけてくれた。「奇跡的に1台ありましたよ!」と店主が自慢げに言ったのが印象的だった。詳しくはバイク日記Lを参照。


 香住・蒜山地方キャンプツーリングレポートはこちら

北海道ツーリングレポートはこちら

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